業火。背後の城を焼く火はますます勢いを増していた。 搦め手から城門へと、踊り狂う火の粉の熱を感じながら、佐古馬士太郎は、母の鈴貴に手を引かれて歩いていた。 母の周りを、怯えた表情をしながらも馴染みの侍女たちが懸命に守ろうと付き従う。 そして、その女・子供の集団を武具に、身を包んだ数人の武士たちが取り囲むように歩いていた。 「…」 十三歳になる馬士太郎の目は、決然とした光を称え、前だけを向いている。 わずか半刻ほど前、この世で最も尊敬する父・佐古泰邦と今生の別れを終えてきたばかりの馬士太郎であった。 「強く生きよ」と父は言った。 母を助け、佐古家の男としての誇りを捨てず生きろと言い残し、父はにっこりと微笑むと城中へ姿を消した。 己の自害と引きかえに、一族を含む女・子供の助命を申し出たのだった。 泣くものか。馬士太郎はそう思う。 父の誇りを守る為にも泣いてはならない。勝敗は戦国の習いであった。 それに、これから、父を殺した憎き敵にまみえることになるのである。 雑賀義嗣。そんな男の前で涙など見せてたまるものか。 ごおっ・・と城の一部が背後で崩れる音がし、侍女たちが悲鳴をあげても、馬士太郎は前だけを見つめていた。 馬士太郎が自分の手を握り締める力が強くなったのを感じ、鈴貴はそれに応えて愛する息子の手を握り返した。 不憫な子だと思う。 必死に前を向いて悲しみに耐えている馬士太郎を見下ろし、鈴貴はすぐにもこの腕の中に抱きしめてやりたいと思う。 だが、敗将の妻である自分の仕事はこれからだった。 夫と共に死にたかった。あの炎の中で今、最愛の夫が焼かれている。 そう思うと胸は張り裂けんばかりに痛む。 だが、共に死にたいという鈴貴の願いを、夫は聞き届けてはくれなかった。 馬士太郎のために生きよ、と夫は言った。 雑賀義嗣が信用に足る男ではないことは、良く分かっている。 今回、同盟を破っていきなり攻め込んできた。 そのことだけを見ても明らかだ。 泰邦の最後の願いを聞き届けた振りをして、嫡子である馬士太郎の命を奪うなど、義嗣にとっては何でもないことだろう。 しかし、投降より他に生きるための選択肢はないのだ。 あとは鈴貴の力に掛かっていた。 何としても、馬士太郎の命を救わねばならない。 自分とて、武士の娘であった。 若い頃から気丈な姫として知られ、薙刀を取らせれば同性に負けたことはなかった。 時にはやんちゃぶりを発揮して男に挑み、たじろがせることすらあったものだ。 負けられない。 夫の最後の願いを妻である自分が果たさなければならなかった。 ぎい・・・・と城門が重く内から開かれる。 運命に立ち向かおうとする健気な母子の前に、夜の闇が広がっていた。 「…よく来られたな」 舐めるような目である。 床几に尊大に腰掛け、兜を脱いだ雑賀義嗣は鈴貴と馬士太郎を前にしては言った。 口元に下卑た笑いが漂う。 常に風貌爽やかな父と比べると、何と品のない男なのか。馬士太郎はそう思った。 蛇の目に、狐の顔だ。こんな男になぜ父が負けねばならないのか。 馬士太郎のそんな思いを鈴貴の発した声が中断させた。 「佐古泰邦の妻として」 凛としている。 「捕虜となった我が一族郎党の助命嘆願に参りました」 にやりと義嗣は口元を捻じ曲げるように笑った。 「…鈴貴どの、であったな」 「佐古鈴貴にございます」 「佐古家に嫁ぐ前…寺石家におられたみぎりに、そちを見たことがある。覚えてはおられぬだろうが」 「…存じませぬ」 「こたびは、そなたたちには不幸なことになったが、これも世の常である」 「…」 「一族郎党の助命、聞き入れてつかわす。ただし」 一瞬の間。 「嫡子・馬士太郎の助命は叶わず」 母が息を飲む音を、馬士太郎は聞いた。 「約定が違いまする!」 鈴貴の鋭い声が、張り詰めた緊張を破る。 「夫の命と引きかえに、誰一人の命も奪わぬというお約束だったはず」 義嗣は床几に座ったまま、じいと鈴貴を見つめている。 何かを値踏みするように。 いま、自分の命が争われているのだ。 だが、その実感はないまま馬士太郎は母親を見上げた。 母の頬が紅潮している。怒りの為か、緊張のためか。 だが、美しい、馬士太郎はそう思った。 「諦めよ」 義嗣の声が響いた。 「古来より、敗れた国の嫡男が生かされた験は、数えるほどぞ!戦国の妻ならば分かっておろう」 義嗣の声が、力を放ち始めている。 戦国を生き抜いてきた男の自信に満ちた声音だ。 「仏門に入れまする!」 鈴貴は怯んでいなかった。叫んだ。 「仏に帰依させ、生涯、夫の供養をさせまする!」 「ならぬ、と言えば…どうする?」 義嗣が低く聞いた。 居並ぶ義嗣の諸将は声を失い、この対峙を見つめている。 平素からこの尊大な独裁者に意見できる臣など一人もいなかった。 義嗣の決定は絶対だ。 いかに憐れみを乞うても、それは変えられない。 この女も、泣いて地に這いつくばり、頭を下げる以外、術はない…。 だが。 「…童一人を恐れ、この程度の約定、果たせぬ男ならば」 鈴貴は頭を下げなかった。 義嗣を、睨み据えた。鋭く、言い放った。 「とうてい、天下を取る器量に足りませぬ!」 皆、息を呑んだ。暴挙か。勇気か。 ただ、敗将の妻の、凛としたその気迫に。 ゆらり…と、義嗣が、立ち上がった。 「…ほう」 一歩、二歩と鈴貴と馬士太郎に向かって歩み寄る。 周囲の気は、刃物のように研ぎ澄まされている。 誰もがぴくりとも動けない。 固唾を飲んで、次に起こる展開を見つめるばかりだ。 「儂の器量が、天下に足らぬ、と…そう、申したか」 義嗣の細い顔が、怒りの為か、青白い。血の気が引いている。 「さように、申し上げました」 「すると…その儂に討ち取られたそちの夫は、さらに器の足らぬ男ということか?」 もはや、義嗣が腰の太刀を抜き、一振りすれば、鈴貴と馬士太郎の身体は瞬時に両断される。そういう距離である。 「我が夫は」 鈴貴は義嗣の目を見据えて、言った。 「同盟を結んだ雑賀家を、信じておりましたゆえ」 だから、卑劣な裏切りに敗れただけだ…鈴貴の目は燃えながらそう言っていた。 張り詰めた沈黙が訪れた。 義嗣と鈴貴が、その視線をぶつけ合い、動かない。 「…小童」 馬士太郎は自分が呼ばれたのだと、気付いた。 義嗣は鈴貴を見据えたまま、馬士太郎に話し掛けていた。 「…生きたいか?」 「…」 馬士太郎には分からない。いや、死にたくはない。 だが、母の言うとおり、仏に帰依してどうなるというのか。 自分は父の子である。戦国武将・佐古泰邦の嫡男なのだ。 だが、生きつづけること、それが父の最後の、そして母の最大の望みでもあった。 「答えよ。生きたいか?」 「…母の申すとおり」 馬士太郎は声を絞り出した。 「母の申すとおりの人生を送ることが、私の唯一の望みにございます」 「…ふん」 鼻で笑った、ようだった。義嗣が、である。 くるり、とふたりに背を向けた。そのまま、再び床几に腰をおろす。 見据えるその表情に、薄い笑みが戻っている。 この狐のような表情の奥には、もしかして深い智謀が備わっているのかも知れない…そう思わせるような、笑みだ。 「…よかろう」 「…」 「おもしろい。儂の器量が天下に届かぬものかどうか、そちら母子に問うてやろう」 「馬士太郎。その命、助けて遣わす。ただし、仏門に入ること許さぬ」 今度は、鈴貴の目に微かな当惑の色が浮かぶ番であった。 「我が小姓のひとりとして育てる。文句はあるまいな?」 それから、数ヶ月が過ぎた。 馬士太郎は、義嗣の小姓としての日々を送り始めている。 心までは服従していない。 いつの日か、佐古家を再興し、父の仇を討つ。そのためにどのような屈辱にも耐え忍ばなければならない…と馬士太郎は思い定めている。 ただ、義嗣の小姓とはいえ、あの邂逅の日以来、馬士太郎は義嗣の面前に出たことはなかった。 義嗣の身の回りの世話は、小姓の中でも古株の、しかも選ばれた者たちの仕事である。 新参の馬士太郎には城中の瑣末な雑事が言いつけられるに過ぎなかった。 時に小姓同士の鍛錬で木刀を握ることもあったが、単調な日々が続いている。 佐古家嫡男であった馬士太郎に向けられる他の小姓たちの目は冷ややかで、語り合えるような朋輩もまだ出来てはいない。 だが、仏門に入るよりはずっと幸運である。自分はまだ、武士の子なのだ。 あの日以来、母の鈴貴にも会えていなかった。 おそらく、この城中に囚われている。 自分の命を、あの義嗣と対等に渡り合って救ってくれた母。 毅然とした態度を、義嗣の前で決して崩さなかった母。 そんな母の身を日々案じながらも、今の馬士太郎は現状に甘んじるしかない。 壮大にそびえる義嗣の城。その天守閣をときおり振り仰ぎ、馬士太郎は母を思う。 この城のどこかで、亡き父の面影を胸に、忍従の日々を送っているのだろうか、と。 だが、母も、馬士太郎が生きている限り、希望を捨てはしないはずである。 いや、むしろ自分よりも、復讐の二文字を胸に刻みつけているだろう。 馬士太郎が知るのは、そんな母である。 いつか必ず、戦場で義嗣を討ち、母とふたりで父の墓前に報せを届ける。 馬士太郎は、ときおり、そんな夢想に酔うのだった。 「…馬士太郎」 呼ばれた。詰め部屋の手前で振り向くと、伊藤芳丸が立っていた。 義嗣の身辺の世話を任されている小姓の筆頭である。 馬士太郎よりニ歳年長だが、我が強く、弱いものに対して強い。 馬士太郎にとっては、虫の好かない男だった。 「なんでございましょう」 「…どうじゃ、たまには、庭で稽古でもせぬか」 珍しい申し出だった。芳丸はさほど腕の立つ男ではない。 父から常に剣術を仕込まれていた馬士太郎は、模擬試合で一度、この芳丸を打ち負かしてもいる。 申し出を断る理由もなかった。木刀を持ち、庭へ出る。 袴を上げてたすきを掛け、一礼して構える。 「いざ」 数合、軽く打ち合った。 と、顔を寄せた芳丸がにやり、と笑い、話し掛けてくる。 「…剣術は、亡き父君に仕込まれたのであったな」 「仰せのとおりにて」 「いずれは、その剣で、殿に復讐を果たす所存か?」 「…滅相もない。そのような」 「で、あろうな。…そちの母親のためにも、そのようなことは考えぬほうが良かろうよ」 「…?」 芳丸が、にっと笑い、木刀を引く。 「そちの母者…たいそう、美しいな。齢三十と聞いたが」 馬士太郎は、ぎょっとした。 「母上に、お会いになったのですか?」 「おう。会うたぞ」 芳丸は答えた。その口元に漂う薄笑いの意味に、馬士太郎は気付かない。 「どこで会われました?母上は…お元気であられましたか?お教えください」 愛する母のこととなると、馬士太郎も子供に還ってしまう。 思わず夢中で一歩、二歩と芳丸のそばへ歩み寄る。 「おう、元気であったわ。…心配には及ばぬ」 そう言って、芳丸は、くっくっ…と笑う。 「こ、言葉は交わされましたか? 何か私のことなど、申しては…?」 「ふむ。…そちのことは、一言も申しておらなんだ」 言葉の底に玩弄するような響きが秘められている。 馬士太郎は、ようやく何かおかしいと気付く。 「…ひと言も?本当に、母上に会われたのですか?」 「慌てるな。俺が話をしたわけではない。ただ、声は聞いたし、間近には居た」 「…?」 「…夜伽じゃ」 「…よ、とぎ?」 いまや、芳丸の笑みは、その悪意を剥き出しにしていた。 「そうじゃ。そちの母はな、昨晩、初めて夜伽を務めたのじゃ。俺はずっと寝所番であったからな。部屋に侍っておったのよ」 夜伽。その言葉の意味するところは、馬士太郎も知っている。 「母が?…だ、だれの…」 動揺する馬士太郎の様子に、芳丸は声を出して笑った。 「決まっておろうが。殿よ。義嗣さまじゃ。そちの母は明け方まで義嗣さまに御されて女の声を出し続けておったゆえ、そちのことを話す余裕など、ありはせなんだわ」 「…た、」 自分の声が自分の声とは思えない。どこから聞こえてくるのか。 「戯れが過ぎまするぞ!」 馬士太郎は自分が叫んだのだと、そこで気付く。 芳丸は、相変わらず口元に卑しい笑いを貼り付けたままだ。 目が残酷な光に満ちている。 「…ふふ。このようなこと、戯れに言うて、どうする」 「…わ、わたしの、母は」 「夫を殺めた男に抱かれるような女ではない、と申すか?」 「…」 「まあ、たしかに長く耐えた…操は立てたほうであろうな。だが、昨夜、とうとう自ら義嗣さまの寝所へ参ったわ。義嗣さまの求めを受け容れ、自ら抱かれたのじゃ」 馬士太郎の頭には、芳丸の言葉が意味をなして入って来ない。 芳丸は何を言っているのか? 母が、自分からあの義嗣の寝所へ?義嗣の求めを受け容れて?…そんなことはあり得ない。 たしかに、馬士太郎は母の女としての美しさも知っている。 父は側室を持たなかったが、城中に母以上に美しい侍女を見た記憶が、馬士太郎にはない。 だから、母が義嗣に「女」として求められることに一抹の不安がなかったわけではない。 だが、母はそんなことがあれば自害する道を選ぶはずだった。 父だけを一筋に愛していた。父からも同じように愛された。そういう母である。 義嗣こそが、生涯の仇ではないか。 「義嗣さまの腹の下で」 芳丸の声が聞こえ、馬士太郎は反射的に視線を合わせる。 「…何とも悩ましい声を上げておったぞ。そちの助命のために、義嗣さまに啖呵を切った話は城中知らぬ者はないが…簾越しに見えた腰の振りようも、なかなかの見物であったわ」 芳丸の言葉に、馬士太郎の中で、何かが弾けた。 掴みかかっていた。芳丸を庭の地面に押さえつける。拳を振り上げた。 「母を…母上をっ」 侮辱するな。そう叫んだ。 詰め部屋にいた他の小姓たちが気配に気付いて、馬士太郎を芳丸から引き離すまで、馬士太郎は拳を振り上げ続けていた。 |
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