こんな時でも、人は、睡魔に襲われる。 馬士太郎は、やや、まどろんだようだった。 無理もない。はじめての寝所番である。 馬士太郎が目を開けたのは、 「…芳丸」 という声が寝所に響いたからである。 気付くと、障子の向こうが、明るくなりかけていた。 夜が終わったのだ。狂乱の時間が嘘のように、いま、寝所は静まり返っていた。 声は、簾の奥からしたものだった。義嗣が、芳丸を呼んだのだ。 「…はっ」 芳丸が、ちら、と馬士太郎を一瞥した後、膝を畳に擦らせながら閨房の傍へ近寄っていく。 「鈴貴を、今日から東の方とする。藤乃は二の丸へ移せ。 …鈴貴を迎える用意の一切を、芳丸、お前が取り仕切れ」 「…はっ」 鈴貴を正式に側室として、東の丸に住まわせる。 最も寵愛する側室は鈴貴である…という意向を義嗣は示したのである。 藤乃という側室は、母に、その座を追われる。そういうことか。 母は目を覚ましている。 寝所の中、無言で白い襦袢を身にまとい、身づくろいをしているようだった。 母は、このような扱いを受ける藤乃という女性を、哀れに思わないのだろうか。 義嗣の情の薄い行為を諌めないのだろうか。 馬士太郎が知っている母は、そういう女性のはずであった。 だが母の声は、しない。ただ俯いているのか、それとも。 「…湯浴みする。用意をさせよ」 義嗣の声が続いた。 用意をせよ、とではなく、…用意をさせよ、と、芳丸に、言った。 芳丸が頷き、こちらを振り返る。そして、馬士太郎は気付いた。 母と義嗣が、一夜の激しい情事のあとに、湯浴みをして身体を清める。 その準備をし、湯浴みの間、ふたりに仕える役目が自分に与えられたのだ、ということを。 (これが…噂の、都風呂か) 長い一の丸の廊下を渡り、檜の総作りになっている一画へ足を踏み入れ、馬士太郎はそう思った。 入り口の扉を開けると、そこは清潔に保たれた脱衣場になっており、その奥に、さらに風呂へと続く扉がある。 入り口のすぐ脇には、小姓が待機しておくべき座所があった。 義嗣が着替えをしていれば、自然と、その姿が見えてしまうだろう位置である。 俗に言う「蒸し風呂」にしか、馬士太郎は入ったことがない。 この時代の風呂といえばそれが主流であるから、無理もない。 だが、この風呂は、檜作りの大きな湯船に湯を張り、そこに身を沈めて入浴するものであった。 都のごく一部の貴族だけの文化であったこの風呂を、数寄者の義嗣は特に命じて、この一の丸の一画に造らせていたのである。 「…ご用意は出来ております」 しばらく、ぼおっとその造りを眺めていた馬士太郎は、不意に後ろから声を掛けられて慌てて振り向く。 顔だけは知っている小姓が、風呂の入り口に立っていた。 風呂そのものの用意を命じられている小姓なのであろう。 「…いつでも、殿をご案内いただきますよう」 馬士太郎は、ぎこちなく、その小姓に一礼する。 小姓も軽く礼を返してきたが、その目に、憐憫とも侮蔑ともつかない光が浮かんでいたのを、馬士太郎は咄嗟に見て取った。 寝所に戻らねばならない。 そして、風呂の用意が出来ていることを、義嗣に告げるのだ。 芳丸が、その役目をやってくれるだろうか。 いや、それは望め得ないことであろうと自分でも、良く分かっている。 母と義嗣が待つ閨の簾の前に、今度立つ事になるのは、自分だ。 母は、今度は、気付くだろう。 そして、一夜の浅ましい痴態を、はしたない嬌声を、ずうっと息子に見られ、聞かれていたことを知るだろう。 (…そして、どうなるのか) 分からない。 どこまでも、現実感がなかった。 馬士太郎は、夢遊病者のような足取りで、寝所へと戻っていく。 夜具の上に座したまま、義嗣はさきほどから何も語らない。 鈴貴は、やや所在なげに、夜具から離れた畳に正座して、義嗣の横顔を見つめている。 …下腹が熱い気がする。三度、精を射込まれた。 まさに、射込まれた、という感じだった。 (あれほど激しく…) 自分がその時、どんな恥ずかしい格好を義嗣に晒していたかと思うだけで、燃えるような羞恥に襲われる。 だから、義嗣がこちらを見ていないのが、ありがたかった。 そっと、襦袢の上から、そのあたりに手のひらを当ててみた。 孕んだとしても、 (…不思議はない) 昨夜の義嗣は、これまでにも増して激しかった。 気だるさが鈴貴の身体を支配しているが、その気だるさはむしろ甘く、鈴貴を酔わせていた。 ようやく、外に人の気配がした。 風呂の様子を見に行った小姓が、戻ってきたのだろう。 情事の後朝に義嗣と湯浴みをするのはいつものことだから、鈴貴にもそのあたりの見当が付くようになっている。 小姓が、膝を摺り寄せながら、こちらへ近づいてくる気配がした。 このまま、風呂へと案内されるのだろう。 男に激しく抱かれた朝の顔を見られるのは、それが小姓といえど、鈴貴には恥ずかしく、煩わしいものに過ぎなかったが。 「…殿」 簾の向こうから小姓の声がした。 しかし、どうしたのか、声が聞き取れないほど小さい。 (…まだ入ったばかりの小姓なのだろうか。…気の毒に。) 鈴貴は思った。義嗣にこのようなおどおどした物の言い方をしていたのでは、勘気に触れてしまう。 小姓の身が心配になり、鈴貴は思わず義嗣の顔を見た。 義嗣は、ただ、簾の外に目を向けている。 「殿」 少しして、今度は、やや大きい声がそう言った。 その声と、鈴貴の顔から、さっと血の気が引くのとは、ほぼ、同時であった。 (…馬…士太郎?) 母親の耳は、数ヶ月離れていても、愛する息子の声を、聞き間違えはしなかった。 ただ、そんなことを信じるわけには、いかない。それだけのことだ。 鈴貴は、己の身体が床にすうっと沈みこむように感じた。義嗣を、慌てて見つめる。 「…湯浴みの支度、整ったか」 義嗣は鈴貴を見ようとはせず、簾の向こうの小姓に、ただそう聞いた。 「…整いまして、ござり、まする」 「…い」 鈴貴の目は見開かれ、喉から声が漏れた。無意識に、襦袢の胸を合わせる。 その顔が、蝋のように白い。 「…いやっ」 鈴貴の小さな悲鳴に、簾の向こうで、小姓が身体をびくりと震わせるのが、分かった。 義嗣が立ち上がった。そして、鈴貴を見下ろす。 鈴貴は正座したまま、襦袢の胸を引っつかむように合わせ、哀れな小鳥のように竦みあがっている。 「鈴貴」 新しい主の威厳ある声に、びくり、と鈴貴が義嗣を見る。 だが、その目は恐怖に見開かれ、救いを求め、憐れみを請うていた。 「立て。鈴貴」 いやいやと頭を振る。 鈴貴の目から、涙がこぼれた。冬の寒空に放り出された子供のように、その歯がカチカチと鳴っている。 だが (…通らせねばならぬ、道よ) 義嗣は心で呟くと、重ねて言った。 「鈴貴。立たぬか」 鈴貴の腕をつかみ、ぐい、と引っ張りあげた。 「…ひっ…」 鈴貴の身体が、引っ張り上げられる。 その時、 「殿!」 簾の外から、その声は、鋭く寝所に響いた。 悲しみと怒りに、満ちた声であった。 …だが、さすがは、鈴貴である。 馬士太郎の鋭い声を聞いた瞬間、鈴貴は、もう、動転から立ち直ろうとしていた。 彼女の持ち前の気丈さと明晰な思考が、これから起こるであろうことを見通させ、そこで果たすべき自分の役割を明確に教えたからである。 女から、母へ。鈴貴は返ろうとしていた。 (だめだ。泣いている場合などでは、ない) 義嗣が異様なほどにゆっくりとした動作で、簾を引き上げていく。 座した馬士太郎は、しかし、無謀にも面を上げたままであった。 その背後に控えた伊藤芳丸の姿は、滑稽なほど哀れである。 思惑をはるかに超えた展開に言葉を失い、ただ頭を畳に擦り付けて平伏している。 (…母、上…!) 馬士太郎は、とうとう、数ヶ月ぶりに、愛する母の姿を間近に見た。 その母は、白い襦袢に身を包んだ姿で居住まいをただし、義嗣に深く頭を下げていた。 「申し訳ございません!」 母が叫ぶように言った。義嗣に、だ。 義嗣は馬士太郎をぎらりとした目で、見下ろしたままである。 「…どうかお許しを。…お願い致します!」 仇敵に頭を下げる母。その姿を見る馬士太郎の感情は複雑だった。 だが、その中に、いくばくかの喜びが混じっていた。 そうだ。母は、やはり今も、自分を守ろうとしてくれているのだ。 (母上…私の…母上…) 馬士太郎の胸に、熱い感情がこみ上げる。 「まだ物の分かっていない、子供でございます!…私から、きつく言い聞かせますゆえ…」 ひたすら義嗣に請願し続ける鈴貴に、義嗣は不気味なまでに沈黙していた。 「どうか…どうか、ご容赦を…お願いでございます」 馬士太郎を見下ろしながら、確かに鈴貴の言葉に耳を傾けているようであった。 母は次に、息子に向けて叱責の言葉を紡いだ。 「馬士太郎!…義嗣様の御前です…頭を下げなさい!」 母の鋭い叱責に、馬士太郎は反射的に畳に手を付いて、平伏する。 だが、母がたった今、「義嗣様」と呼んだ。 その声が、脳髄を打つように響いている。 「このとおりでございます…どうか…このたびだけは…ご勘弁を…」 なおも、母が必死に義嗣にとりなす声が聞こえる。 (…けれども…そういうことなのだ。) 初めて、義嗣に会った時も、母はこうやって必死に馬士太郎を救おうとした。 だが、その時とは、何もかもが決定的に違ってしまっている。 もう母は、義嗣と対峙する立場の女ではない。 母は、義嗣のものだ。義嗣の、女なのだ。 昨夜の、母のあられもない姿とよがり声が胸中に蘇る。 馬士太郎は今さらのように強い悲しみに襲われ、強く目を瞑った。 義嗣が動く気配がした。衣擦れの音がする。 母が、「…っ」と、息を飲んだ。 同時に、かちゃり…という音が響く。 何が起きているか、馬士太郎には推測がついた。 床の間に据えてあった刀を、義嗣が、手にした。その音であろう。 「…こ、この子を…斬るのならばっ…先に、どうか、私を…」 鈴貴が叫んだ。義嗣を遮り、自分の前に進み出るのが分かった。 次の瞬間である。 母の腕が、平伏する馬士太郎の頭を守るようにふわり、と掻き抱いた。 柔らかい。そして、暖かかった。幼い頃から抱かれてきた母の腕だ。 なんという安堵だろうか。自分をずうっと守ってきた、その優しい腕。 (…このまま斬られても良い) 母の腕に抱かれ、馬士太郎の目が熱く潤んだ。 そうだ。優しい母が、母であるうちに、死ぬのも悪くはない。 義嗣は、無言で、鞘から刀を抜き放った。 朝の光が差し込む寝所に、その鋭利な刃が、冷たい光を放つ。 目の前で鈴貴が、我が子を守るために、必死に馬士太郎に覆い被さっている。 義嗣を見つめる目が、涙に濡れて、きっ、とこちらを睨み据えている。 ふと、義嗣の胸に、遠い過去が、去来した。 そのまま、刀を鈴貴に向けてまっすぐに伸ばす。 切っ先が、鈴貴の白い喉に触れる。だが、鈴貴は動こうとしない。 自分が斬られるまで、馬士太郎を守ろうとする姿勢を崩さない。 しばしの間が、あった。 母と子の姿を義嗣は見つめていた。そして、やがて、ぼそりと言葉を紡いだ。 「…かつて」 声を聴き、鈴貴はゆっくり目を開いた。 斬る気がない。そのことが鈴貴には分かった。 馬士太郎を掻き抱くその手が、緩む。 「…その子を、いっそ殺してくださいませ…そう叫んだ女が、おったわ」 義嗣は言った。 鈴貴は、義嗣の顔を見上げた。これまで見た事のない義嗣を、いま、見ていた。 「…義嗣、さま」 自然と言葉が口から漏れた。 その鈴貴の声色は、たった今まで至福の極にあった馬士太郎を、瞬時に奈落へ突き落とした。 幼い馬士太郎にも分かる。その言葉が含む感情。 それは明らかに思慕、と呼ぶべきものだった。 「それ故、儂は他人を信じはせぬ。すべての人間の価値は、儂にとって利用できるかどうかだ」 「…義嗣さま」 「自分を産み落とした女に裏切られた時、そなたなら、誰を信ぜよと言うか」 鈴貴は押し黙った。答えられなくて黙ったのではない。胸が詰まったからだ。 その胸に、確かに、義嗣に対する熱い母性がきざすのを、鈴貴は感じた。 義嗣はすうっと刀を引いた。 「馬士太郎」 そう呼んだ。 「…母に二度、命を救われたな」 義嗣の言葉とともに、鈴貴の手が、馬士太郎から離れていった。 畳に居住まいをただすように正座した母は、そのまま、ゆっくりと義嗣に平伏する。 「…ありがとう存じまする」 母は言い、それから、わずかに顔を馬士太郎に向けて、続けた。 「…馬士太郎」 母が何を言おうとしているかは分かる。 同じように、義嗣に頭を下げろ、と言っているのだ。 馬士太郎の内心は、寒々と冷えている。 母の、義嗣に対するその態度。そして、いま、自分から離れていった柔らかい手。 すべてが、馬士太郎の心を傷つけていた。 だが、哀しいかな、やはり馬士太郎は、この母の子であった。 母を愛し、どこまでも信じていたい、ひとりの子供に過ぎぬ。 その母が、頭を下げなさい、と言っている。 馬士太郎は、無言のまま、義嗣に向かって深く平伏していった。 圧倒的な支配者の前に、かつて戦いを挑もうとした母と子が、いま、伏していた。 義嗣がざっ…と歩いて通り抜けた。 平伏する二人の間を。 まるで、そこにある見えない絆を断ち切るかのように。 「湯浴みする」 それだけ言い残し、一人、義嗣は寝所を闊歩して出て行った。 寝所に、鈴貴、馬士太郎、そして芳丸が残された。 主のいなくなった寝所に向かい、母と子は、まだ平伏したままだ。 義嗣に不意に放り出された母子は、互いに取るべき態度を見失ってしまったかのようであった。 心臓の音すら聞こえるような刻が、しばしの間、流れる。 「鈴貴殿」 沈黙を破ったのは、背後に控えていた、芳丸である。 はっとしたように、鈴貴が面をわずかに上げる。 だが、小姓の方を振り返ることなどはしない。 その背に、芳丸の声は続いた。 「さ、鈴貴殿も、いざ…。殿をお待たせするようなことがあっては、なりませぬ」 それは間違っていない。やがて、鈴貴は、すう…と立ち上がってゆく。 芳丸は内心で、好餌にありついた狐のごとき卑劣な笑いを浮かべ、さらに言いつのる。 「馬士太郎」 「…は」 「母君…いや、鈴貴殿を、案内さしあげよ」 わざと、「母君」と呼んだ。馬士太郎は、ぐっと唇を噛み締める。 鈴貴は、ゆっくりと馬士太郎を見下ろした。 子を守るべき母でありながら、自分は仇である義嗣の閨房術に狂わされ、手中に堕ちた。 ついに側室となることを誓わされ、義嗣の子種を、たっぷりと子宮に受けた。 愛する我が子は、そのせいで同僚から屈辱を強いられている…。 鈴貴の表情は、言い表せぬ哀切に満ちていた。 だが、いつまでも、こうしているわけにはいかなかった。 「…馬士太郎」 鈴貴は、意を決して口を開く。 「…お立ちなさい。…母を、案内してください」 |
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